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2017年4月25日火曜日

オルハン・パムク『僕の違和感』:現代トルコの半世紀を追体験する


「ロシア文学が好き」、「フランス文学が好き」という人は容易く見つかるが、「トルコ文学が好き」という人はあまり多くないでしょう。

今回紹介するのは、現代トルコで最も有名な作家オルハン・パムクの『僕の違和感』(2016)です。

オルハン・パムクとは

オルハン・パムクは、1952年トルコのイスタンブール生まれ。イスタンブール工科大学で建築を学び、イスタンブール大学でジャーナリズムの学位を取得。その後、コロンビア大学客員研究員としてアメリカに滞在。作家デビューは1982年の『ジェヴデット氏と息子たち』(オルハン・ケマル小説賞受賞)。その後も数々の 文学賞を受賞。2006年にはノーベル文学賞を受賞。代表作は『わたしの名は赤』、『雪』、『無垢の博物館』 など。

パムク氏の経歴は、公式サイト(英語)を見るのが一番でしょう。今の時代、小説家も自分のウェブサイトを持っているんですね。
日本語の場合は、Wikipedia、藤原書店の紹介が参考になります。
ノーベル賞受賞時に一気に知名度が高まりましたが、それから数年が経ち、日本での知名度は低くなっていると思います。ただ執筆意欲は旺盛で、2016年には最新作"Hatıraların Masumiyeti"(英題:The Red-Haired Woman)を刊行しました。

パムクは、トルコの特にイスタンブールを舞台とした作品を多く描いており、オスマン帝国時代〜現代まで、異なる時代のイスタンブールを登場させています。

2016年に和訳が刊行された『僕の違和感』も、イスタンブールを舞台にした作品です。それでは、作品について紹介します。

『僕の違和感』あらすじ

本書は上下巻の長編小説で、1950年代から2012年までのおよそ半世紀の間の、主人公メヴルト・カラタシュとその家族、親戚、友人たちの半生を描いた物語です。
主人公メヴルト・カラタシュは、12歳で故郷の村からイスタンブールへ移り住み、父と共にトルコの伝統飲料”ボザ”を売り歩くようになる。大都会の生活に馴染む中、同じく村から出てきたいとこの結婚披露宴で、美しい少女に一目惚れする。その後、熱烈な恋文を送り続け、ついには駆け落ちを実行するーー。
物語冒頭は、この駆け落ちの場面から始まります。駆け落ち自体は成功しましたが、その後とんでもない事実にメヴルトは気づきます。この駆け落ちした相手が、披露宴で一目惚れした少女ではなく、その姉だったのです。しかしメヴルトは、それに気づきながらも、一目惚れした少女の姉”ライハ”と、苦労しながらも幸せな家庭を築いていきます。

物語はその後、メヴルトの子供時代に戻り、イスタンブールへの移住、学校生活、ボザ売りの仕事、ライハとの駆け落ち・結婚、出産・・・と時代は冒頭に戻り、さらに先へと進んでいきます。その中で、メヴルトとメヴルトの周囲では様々な出来事が起こります。クルド人の親友フェルハトとの出会い、徴兵、仕事の失敗、住民同士の抗争・・・等々。こういったそれぞれの物語が、相互に絡まりながら、まるで舞台脚本のように様々な登場人物の口から語られていく形式になっています。

続いて感想を書きますが、先入観なく本作を読みたい場合はここで止めて、本を入手してください。


感想

圧巻、の一言です。主人公はごく平凡な、心優しい青年に過ぎません。何ら特別な存在ではなく、その時代に田舎から大都会へ出てきた何百万というトルコ人青年の一人です。大きな陰謀に巻き込まれるわけでもありません。確かに駆け落ちは劇的のように感じますが、許され難いものの実はよくある手段であり、主人公メヴルトが最初に恋した相手も別の男性と駆け落ちをしています。主人公以外の登場人物もそれぞれ、ごくありふれた人々です。それにも関わらず、緻密な構成と描写により、物語としても飽きることなく、トルコの半世紀を生きたそれぞれの人物の息遣いが活き活きと感じられます。

何よりも素晴らしいのは、イスタンブールという都市の描写です。これまでに幾度となくイスタンブールを描いてきた作家だけあって、イスタンブールの半世紀の劇的な変化が、主人公メヴルトの視点から丁寧に描かれています。メヴルトは伝統飲料”ボザ”を売るために、イスタンブールの路地を日々歩き続けます。路地から見える、変わり続ける都市の風景を、時に喜び、時に寂しく思うメヴルト。私はイスタンブールの空港にしか行ったことがありませんが、本書を読み、イスタンブールが何年か暮らした街のように郷愁を感じられるようになりました。

また、イスタンブールだけではなく、トルコの半世紀を追体験できるといってもよいでしょう。周知の通り、現代トルコはケマル・アタチュルクが打ち建てた世俗主義の国家です。しかし最近のトルコを見てわかる通り、イスラム教はトルコ社会と不可分のもので、世俗主義と信仰心の間で揺れ動くメヴルトや社会の様子も描かれています。世俗主義に加えて社会主義が一部の支持を集めた時代もあり、作中の人物も関わりを持ちます。クルド人というキーワードもよく出ます。そして後半では、資本主義国家として急成長したトルコ社会も描かれます。こういった変化が、歴史として解説されるのではなく、登場人物の口から語られるのです。メヴルトは何かひとつの思想の熱心な信奉者ではなく、どちらかというと冷めた視点で、社会の変化と向き合っています。

トルコとイスタンブールの半世紀の描写、というのは本作の大きな魅力であることは確かです。それと同時に、決してこれはトルコ土着の文学ではなく、それぞれの人生を歩む全ての人に向けた文学だと、思います。私は、最後の一文でそのことを感じました。

まとめ

文学作品の評価が定まるまでは時間がかかりますが、オルハン・パムク『僕の違和感』は、間違いなく名作の一つとなると思います。日本ではあまり話題にされない海外文学の中の、さらにマイナーなトルコ文学で、この作品を知る人が少ないことが残念です。宮下遼さんの日本語訳は読みやすく、登場人物の相関図も載っているので、海外文学が苦手でも抵抗なく読めると思います。

そして本書を読んでパムクに興味を持ったら、他の作品も読んでみると良いでしょう。主な作品には日本語訳があります。



また、現代トルコの歴史に興味を持ったら、最近刊行された新書『トルコ現代史』に目を通してみましょう。

パムク作品については、また取り上げたいと思います。

2012年7月8日日曜日

フランツ・カフカ『変身』

フランツ・カフカ『変身』高橋義孝訳 新潮文庫


これは、虫になったグレーゴル・ザムザの物語ではない。
虫になったグレーゴル・ザムザをめぐる、家族の物語だ。


「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した」

あまりにも有名なこの一節から始まる、20世紀文学の傑作と言われる『変身』。

陰鬱な物語と思って読み始めたが、案外そうでもない。

冒頭の一節の通り、ある朝、グレーゴル・ザムザという男は、自らが虫になっているのを発見した。しかしパニックに陥るでもなく、グレーゴルは極めて落ち着いて、自分の仕事―外交販売員―について長々と思いを馳せるのだった。「やれやれおれはなんという辛気臭い商売を選んでしまったんだろう…」といった具合に。そして、寝坊してしまったこと、朝の電車に乗り遅れてしまったこと、そしてそのうち支配人がグレーゴルを呼びにやってくるであろうことを気に掛けたのだった。

この出だしのシュールさに、ある種の人間は必ず心掴まれるだろう。
人間が虫になるなどというあり得ない状況にも関わらず、日々の仕事について考えてしまう。この妙な現実感に、私は納得してしまった。


『変身』は、主人公グレーゴルの物語ではなく、虫になったグレーゴルをめぐる家族の物語である。

グレーゴルには、一緒に住む家族がいる。両親と妹だ。グレーゴルは父親の借金のために懸命に働いて一家を養ってきた。バイオリン好きな妹を音楽学校へ入れてやろうという計画も温めてきた。家族思いの、ごく真面目な人間が、理由もなく虫になってしまったのだ。

物語冒頭で、家族は虫になったグレーゴルを発見し、衝撃を受ける。
家族はグレーゴルをひとまず彼の部屋に監禁し、働き手の居なくなった家計をなんとか回そうと動き出す。

最初、グレーゴルを恐れていた家族だったが、次第に虫となった彼の存在にも慣れていく。特に妹は、グレーゴルの世話役として食事の運搬や掃除まで行った。天井や壁を這いまわる遊びを始めたグレーゴルに気を配って、邪魔になる家具をどかしてやろうという発案までした。母親にとっては、虫になったとしても息子は息子。最初は虫になったグレーゴルを見て腰を抜かした母も、グレーゴルに会いに行くと主張したのである。一方のグレーゴルは、家族に気を遣って、日中は窓際に行かないようにしたり、妹が入ってくる時には麻布をかぶるなど、言葉は通じなくとも態度で「危害を加えない」という意志を示した。

そんな具合に、途中までは「家族愛」の話ともとれる。

しかし生活が厳しさを増す中、ぎりぎり保たれていた我慢は、ついに限界に達し、物語は破綻へと向かう……


この先が一番の読みどころなので、ネタバレは差し控えておこう。

一点だけばらしておきたいのは、『変身』の結末は、意外にも「ハッピーエンド」(っぽい)ということ。もちろん悲劇的な面もある最後だったが「これでよかったんだなあ」っと、どこかほっとする結末である。

全体を通しても本作はユーモアに満ちた作品で、一般に持たれていると思われる、鬱・孤独の代名詞(?)的なイメージとはかけ離れていると感じた。


食わず嫌い、読まず嫌いはいかん。
まずは読んでみよう。
「文学」はそうすることでしか発見できないのだから。