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2012年4月19日木曜日

小川洋子『密やかな結晶』

小川洋子『密やかな結晶』講談社,1994

あらゆるものが、静かに消滅していく島――言葉も、そしてわたしも。

国名も時代も明示されていないとある島。そこでは、鳥、バラ、写真など、あらゆるものが一つずつ消滅していった。「消滅」とはいったいどういうことか。鳥が消滅したときの様子を引用しよう (講談社文庫, p.17)。

 鳥の消滅も他のケースと同じように、ある朝突然に起こった。
ベッドの中で目を開けた時、空気の張りに微かなざらつきがあった。消滅のサインだ。


あるものが消滅する日の朝は、いつもと違う不穏な空気が漂う。主人公の「わたし」のみならず、町の人々もみな何かの消滅に気付き、何が消滅したのか探る。消滅、といっても、異次元にワープしたかのようにそれが跡形もなく消えるのではなく、人々の記憶から、それが消えるのだ。

主人公は空を飛ぶ小鳥を見て、消滅に気付く。

「あれは、観測所で父さんと一緒に見たことのある鳥だったかしら」
そう思った瞬間、わたしは心の中の、鳥に関わりのあるものすべてを失っていることに気づいた。鳥という言葉の意味も、鳥に対する感情も、鳥にまつわる記憶も、とにかく全てを。

こんな風に、島からは、正確には島の人々の記憶から、あらゆるものが消えて行く。
消滅したものは、処分するしかない。川に投げ捨てるなり、燃やすなりして。

そして島では、消滅が滞りなく行われるよう、秘密警察が監視の目を光らせている。
消滅したはずのものをいつまでも持っていたら、没収されるか、連行されてしまう。

しかしそんな島にも、記憶を失わない人々が存在することが明らかになり、ある時から
秘密警察は彼らに目をつけて強制的に連行する「記憶狩り」を行うようになった……。


舞台設定はこんな感じです。
この島で、一般の人々は「消滅」を静かに受け入れている。
主人公も例外ではない。かつて消滅したモノを見ても、その名前を聞いても、何の感情も呼び出せない。
それがいくら、消滅以前には愛着を持っていたものだとしても……。

一見絶望しかないようだが、衰亡していく記憶と感情の残滓を振り絞って綴られる、危険を孕んだ穏やかな日常と、大切な人々にむけられたあたたかい感情は何とも美しい。

「消滅」の理由は、とくに明らかにはされない。不条理小説といってもいいと思う。
そして、それだけでは説明できない、不思議な身体感覚、読書体験が味わえる作品である。