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2020年5月17日日曜日

伊藤計劃『ハーモニー』:世界は健康ディストピアへ向かうのか


新型コロナウィルスの感染拡大により、この状況を予期したかのような小説や映画が注目を集めています。小説では、カミュ『ペスト』、小松左京『復活の日』、映画では『コンディション』、『感染列島』などなど。


そんな中で、意外と言及されていないのが、伊藤計劃のSF小説『ハーモニー』です。


『ハーモニー』のあらすじ

『ハーモニー』は、早逝したSF作家の伊藤計劃氏により、2008年に出版された小説です。


あらすじは次のようなものです(筆者によるまとめ)。

 

 舞台は「大災禍(ザ・メイルストロム)」と呼ばれる大混乱を経た21世紀後半。世界はこの混乱を二度と繰り返さないため、住民に健康管理デバイス"WatchMe"を埋め込み、心身の健康状態を「生府」が管理しコントロールする監視社会を構築した。結果、人々から病気は駆逐され、見かけ上の調和がとれた社会が実現した。 

 そんな中、世界中で同時多発的な(この世界ではほぼ起こり得るはずのない)自殺が発生。世界保健機構(WHO)の螺旋監察官として紛争地帯に駐留していた主人公のトァンは、少女時代の友人ミャハとの記憶を足がかりに、この自殺の謎に迫る。

 

「大災禍」は、2019年に北米で発生した暴動をきっかけに核戦争が発生し、その混乱により未知のウィルスが流出するなどし、放射能汚染による病気や感染症が世界的に流行したものとされています。


人々の健康を第一とする「生命主義」が世界を支える思想となり、医療技術は高度に発達し、「大災禍」を繰り返さないためであれば人々も進んで監視社会を受け入れる。健康を害するタバコや酒は禁止。体内に埋め込まれたデバイスWatchMeは、体内の健康を監視するだけでなく、データにより生活様式の提案をする、病原体の侵入を防ぐ、その人の行動履歴から社会評価を記録、また他人の社会評価を表示するなど、健康以外の事柄もすべて制御している。国際機関では、保健機構が絶大な権力を有している。


本作では、こんな世界が描かれています。


起こるはずのない同時多発自殺はなぜ起きたのか、それに対して世界はどう動いたのか、友人ミャハはどう関わっていたのか。世界のハーモニーは保たれるのか。


そのあたりは原作や漫画、映画を見てもらえればと思います。映画はNetflixで観ることができます。筆者は原作を読んだ後に映画を見ました。映画は賛否両論ですが、漫画は評価が高いようですね。

 

 

現在のパンデミック後の世界と『ハーモニー』

『ペスト』や『復活の日』と違い、『ハーモニー』では感染症の流行そのものは描かれていません(「大災禍」も核戦争と病気の複合的な混乱とされている)。本作はどちらかというとパンデミックの「その後」の世界を予見したものといえます。


パンデミックの発生で、各国は感染者の行動追跡や感染予防のための行動制御に血道をあげています。特にもともと監視社会を目指していた国はさらに拍車がかかり、『ハーモニー』に見られる「健康ディストピア」に向かっているとすら思えます。


現在できることは、せいぜい位置情報の記録くらいですが、健康管理デバイスの携帯を義務づけるようなコミュニティ(職場、学校、自治体、あるいは国単位)も出てくるでしょう。


監視社会を描くSF小説は定番であり珍しくありませんが、健康を中心としたディストピア社会を舞台にした作品はそこまで多くはないような気がします。気になる人は、ぜひ読んでみましょう。

2012年4月19日木曜日

小川洋子『密やかな結晶』

小川洋子『密やかな結晶』講談社,1994

あらゆるものが、静かに消滅していく島――言葉も、そしてわたしも。

国名も時代も明示されていないとある島。そこでは、鳥、バラ、写真など、あらゆるものが一つずつ消滅していった。「消滅」とはいったいどういうことか。鳥が消滅したときの様子を引用しよう (講談社文庫, p.17)。

 鳥の消滅も他のケースと同じように、ある朝突然に起こった。
ベッドの中で目を開けた時、空気の張りに微かなざらつきがあった。消滅のサインだ。


あるものが消滅する日の朝は、いつもと違う不穏な空気が漂う。主人公の「わたし」のみならず、町の人々もみな何かの消滅に気付き、何が消滅したのか探る。消滅、といっても、異次元にワープしたかのようにそれが跡形もなく消えるのではなく、人々の記憶から、それが消えるのだ。

主人公は空を飛ぶ小鳥を見て、消滅に気付く。

「あれは、観測所で父さんと一緒に見たことのある鳥だったかしら」
そう思った瞬間、わたしは心の中の、鳥に関わりのあるものすべてを失っていることに気づいた。鳥という言葉の意味も、鳥に対する感情も、鳥にまつわる記憶も、とにかく全てを。

こんな風に、島からは、正確には島の人々の記憶から、あらゆるものが消えて行く。
消滅したものは、処分するしかない。川に投げ捨てるなり、燃やすなりして。

そして島では、消滅が滞りなく行われるよう、秘密警察が監視の目を光らせている。
消滅したはずのものをいつまでも持っていたら、没収されるか、連行されてしまう。

しかしそんな島にも、記憶を失わない人々が存在することが明らかになり、ある時から
秘密警察は彼らに目をつけて強制的に連行する「記憶狩り」を行うようになった……。


舞台設定はこんな感じです。
この島で、一般の人々は「消滅」を静かに受け入れている。
主人公も例外ではない。かつて消滅したモノを見ても、その名前を聞いても、何の感情も呼び出せない。
それがいくら、消滅以前には愛着を持っていたものだとしても……。

一見絶望しかないようだが、衰亡していく記憶と感情の残滓を振り絞って綴られる、危険を孕んだ穏やかな日常と、大切な人々にむけられたあたたかい感情は何とも美しい。

「消滅」の理由は、とくに明らかにはされない。不条理小説といってもいいと思う。
そして、それだけでは説明できない、不思議な身体感覚、読書体験が味わえる作品である。